ラベンダーの咲く庭 LavandeBleu

日々の食事を記録するついでに雑談しているブログです

雑77

怒涛のようだった8月が過ぎて行く(ちょっと長文です)

 

 

書くのかどうか迷ったのだが、やはり記録として残しておくことにした。

去る8月1日の午後6時過ぎ、かねてからがんの闘病をしていた友人・ごくりが亡くなった。という一報を彼のお母様から、本人LINEを使ってお知らせいただいたのが2日の夜だった。その際、通夜・告別式の予定を教えていただいた。お忙しい中わざわざご連絡くださったみたいだ。

この時点でいなとくさんに連絡を取ると、彼の元にも同様の訃報が届いていたようだった。もちろんぬるあどにも。後から聞いた話だが、訃報を知らせる相手をある程度(ごくり自身が)リストアップしていたらしい。実際、コロナ前に九州旅行を共に行ったのが彼との最後の面会になったのだが、晩年彼がお熱を上げていたVtuber関係には僕はあまり興味は無かったし、ここのところ僕は新しく増えた家族にかかりっきりだったしで、正直直近の接点は少なかったと思う。それでも、今年3月にがん告知を受けたという話には少なからず動揺した。また、機を伺って見舞いに行こうかとも考えたりした。7月に「医者に匙を投げられた。余命数日らしい。」というツイートがあった後、マジで最後かもしれないと思い久しぶりに彼にLINEを送ったりした。この時点ではちゃんと受け答えもしてくれたし、そのうち見舞いに行くよ的な話もした。でもそれは叶わなかった。

同じようなツイートをした気がするが、ごくり自身、普段からわりと冗談めいていろんなことを言いがちだったので、自分としても「そんな余命数日だなんて大げさだな」と軽く考えてしまっていた。というか、自分の知り合いがそんな状況に陥るなんてありえない・・・という正常性バイアス的なものもあって信じたくなかったのかもな。自分としたLINE会話も彼には「気休めを言いやがってこのやろう」と思われていたかもしれないが、死人に口無しだ。本当のところはもはや分からない。

 

いなとくさんと相談して通夜を共に行くことになった。大急ぎで香典や夏用スーツを買ってきた。それでもなんかやっぱり信じられなかった。実家に一泊するのでその準備をしてても、なんかほんとに明日行くのか?みたいな妙に浮ついた気分だった。もちろん当日はやってきて、朝いつもどおり子どもを保育園に送り、いつもどおり昼まで仕事と家事をして早めに昼を済ませて家を出た。駅前の時間極め駐車場に停めて、新幹線の切符を買って、3年半ぶりに新幹線のホームに立った。最後に新幹線を使ったのは2020年の3月だったと思う。FF14の知り合いと有名店に焼肉を食いに行ったとかそんなだったはず。そんなことを考えつつ葬儀場の最寄駅に着いて、これまた数年ぶりにいなとくさんと再会。葬儀場までタクるつもりだったのだが、結局つかまらなくて普通に歩いた。夕方にもかかわらず厳しい日差しのなかを、今日は自分たち以外に(知り合いで)くる人いるのかな?とか、ぬるあどは台風とか仕事とかで来れないらしいとか仕事関係の人は来るよなぁとか、意外と遠いっすね・・・などと言い合いながら頑張って歩いた。いなとくさんはしばらく夜勤生活なので、普通に昼間の活動はしんどかったろうによくがんばった。

駅を離れるにつれて住宅街の狭い道に入っていくが、ひっきりなしに車は通るし人や自転車の往来も激しい。田舎生活がなんだかんだで長くなったせいか人の多さにびっくりしつつ、汗を拭きながら上着を着直して葬儀場に入った。最初は受付の方がご両親かな?と思ったが、おそらく御親類だったのだろう。受付を済ませた後、いなとくさんとどこにいればいいかな?とぼそぼそ喋りながらホールに立っていると、後ろから話し声が聞こえてきた。この時は気づかなかったが、ここで啜り泣くようにご親戚の方?と話していた女性がごくりのお母様だったのだ。

葬儀は粛々と進んだ。途中から入ってきた方々もいて、おそらく郵便局の仕事関係の人たちだ。スーツでない人もいたけど、通夜は金曜日、平日だったので準備する時間がなかったのかもしれない。思ったより参列者が少なかったな、とは個人的な感想だ。というより仕事繋がりの参列者が意外と多かったというか。結果的に友人枠は僕といなとくさん、そして後述するDeeさんの三人だった。

お焼香を終えてすぐ、葬儀場のスタッフから「この後お食事されていきますか?」というような旨の案内を受けた。いなとくさんと「え?そういうもんなの?」とお互いに狼狽えながら、スタッフに言われるがまま地下へ降りていくとそこにはお寿司などが準備された長テーブルがあった。ご親族はもちろんまだ上の階で葬儀の最中なので、入った部屋には誰もおらず僕たち二人だけが残された。流れがよく分からないままどうしようかと思っていたら、続いて郵便局関係の方々も部屋に入ってきて、再びスタッフが「ご自由にお食事ください」と言う。流されるまま寿司をつまんだり飲み物を飲んだりする二人なのであった。しばしのご歓談というやつだ。

少し離れたところにいらした、ごくりの学生時代からのリアル友人であるDeeさん(趣味はキャンプ)という方をいなとくさんが呼んできた。ごくりといなとくさんでキャンプをしていたら偶然そのDeeさんも近くにいたという逸話とともに紹介を受ける。ごくりのキャンプ趣味はDeeさんという人の影響も大いにあったんだろうな。そういや話が前後してしまうけど、ホール内の片隅にはごくりさんの写真が貼られたボードと彼のキャンプ道具が並べられたコーナーがあった。

実はごくりが亡くなる少し前、お母様から「本人のケータイに自画像が全然ないから、もしあれば送って欲しい」というLINEをいただいていたのだ。この時点で、おそらくスマホを触れないくらい病状が悪化していたものだと思われる。ボードには僕が送った九州旅行の写真を貼ってくれていた。それ以外には、キャンプ中や仕事中のもの、小さい頃や学生の頃、家族で撮ったおそらく最後の写真も添えられていた。もう一つ、写真のほかに貼られていたメッセージがあった。これは事前にいなとくさんから聞いていたもので、ぬるあどがごくりのお母様に送ったというLINEの内容だった。それは、ごくりとの思い出や感謝をとても丁寧にかつ熱を入れて書き連ねた文章で、お母様はいたく感動してわざわざプリントアウトしてここに飾ってくださったそうだ。余談だが、このメッセージの件を踏まえてぬるあどには文章力があるよな的な話をいなとくさんとした上で、ご家族の同意を得てごくりの訃報をぬるあどにツイートしてもらったという経緯があった(彼ならフォロワーも多いからね)。こんなところをぬるあどが見てくれてるかは分からないが、面倒な役回りを引き受けてくれて今更ながらありがとう。こういうふうにSNSでの周知をするというのも、今の時代ならではだなと思う。

さて、食事のあとで、ご家族が前に出て参列のお礼などを仰ってくれた。カンペを持って緊張しながら話すお父様。途中で少し泣けてしまって隣のお母様に突っ込まれつつ、しっかり最後まで読み上げてくれた。それらを茶化すように明るく振る舞う弟くん。みなさん辛かろうに、一生懸命感謝の気持ちを伝えようと努力されていたのが印象的だった。

この日の最後に、棺に収められたごくりさん(のお顔)に手を合わさせてもらったが、生前とは別人に思えるほど痩せていてイケのメンだった。ほとんど固形物を摂れない身体だったのだから痩せてて当たり前なんだよな。もし闘病を勝ち抜いていたら、まじでモテ期が到来していたかもしれん。そういや(僕が)モテキってドラマの主演に似てるわって弄ってきたのも確かごくりだったような。

 

今更ながら僕とごくりとの関わり合いを少し振り返ってみると。

だいたい10年ぐらい前、Twitterでの逆毛同士の交流が深くなってきたころ、天使待ちラジオと称していなとくさん宅で謎のごくしり対談をしたり(それをTwitterで流したり)、それ以前にも、それこそTwitterの逆毛オフではごくりさんネカマさん僕で幹事っぽいことをしてみたり、もっと前のことを言うならMixiIRCチャット(喫茶ごくり)時代、いやもっともっと昔にあった、したらば掲示板の逆毛ラジオスレからの交流がごくりとの最初の付き合いになるかもしれない。その辺は僕ももう記憶がおぼろげだけど、約20年前だからな。20年だよ20年。その間ずっと日常的に関わってきたというわけではなかったが、彼の懐の広さに助けられたことは多くあっただろうな。いつだったか色々FF14で面倒になってツイ垢消しをした時に「ごちゃごちゃ言わずに戻ってこいや」的なことを言ってくれたLINE会話も残ってる。式の受付やってってお願いしたときも渋々・・・いやきちんと受けて全うしてくれた。なんだかんだでやり遂げる奴だった。でも、天使待ちってそういう意味じゃねーんだぞ。早い、早すぎる。3月にがん発覚して8月に亡くなるなんて超特急ってレベルじゃないぜ。葬儀に行って、さらにこんな長文も書いておいてなんだけど、やっぱり現実味がしないよ。

 

とりあえず、いつまでも振り返っていてもしょうがないのでこの辺で報告?記録?を終えることにする。当日の強烈な暑さと共に忘れられない記憶になった。この先も夏がくるたびに思い出すのだろうな。